四季美人之図2023年12月30日 23:03

絹本着色(四幅軸装)。大正2年と箱書きにある。 「四季美人之図」は、近代的美人画に属するものとなっている。四幅対の作品は、商家の女性をモデルに描いたもので、大正時代のやや古風な女性像になっている。まず冬というか初春の大福茶を運ぶ羽織の若妻のような女性、緊張気味な表情が初々しい。春は、枝垂れ桜の下での二人連れ、扇子を広げて間を持たせている。姉妹なのか、いとさんとお付きの人なのか、着物からは若干の歳の差を感じさせる。そして、若奥さんが衝立の埃を払って夏の到来を感じさせる夏の一幅。秋は、年の離れた姉に子供が何か言っている。気になっている人が通りがかったのかもしれない。穏やかな秋の一日、そんな良き時代の思い出のような、何か物語を背景に持つ美人画である。

寛文風美人画2023年11月26日 22:17

大正から昭和にかけて上村松園や鏑木清方、北野恒富に代表される近代での美人画が興隆を見た。春嶺の紫式部図や賢木も美人画に近いものである。まだ紹介出来ていないが、四季美人図が描かれている。今回の作品は、寛文風美人画である。小袖で、鹿の子絞りがあしらわれ、美しい桜の花弁が印象的である。全体として「地無」ではなく、模様の空間が開けられるいるということで、寛永ではなく、寛文美人図ということになる。ほぼ同じ構図で二点が収集されている。やや小振りのもう一点も、同じく小袖姿であるが、鹿の子絞りはなく、友禅染めのみの模様と思われ、こちらも桜の花弁であるが落ち着いた亀甲模様が主体となっており、江戸時代の半ばと思われる女性の立ち姿となっている。

 さて、やや遡る近世での美人画は見立てがなされていた。応挙の「江口の君」が普賢菩薩であるような見立てで表されることが多かった。この春嶺の美人画では女性の足元の蟹に気がつく。更に蟹はお椀を載せている。おそらく如来像の台座である蓮華座であり、女性を見守る意味合いがあると想定される。元々蟹は、歌麿の浮世絵でも蟹を持った「教訓親の目鑑 俗ニ云ばくれん」があったりする。さらには、今昔物語で蟹の恩返しという、蛇から無理な結婚を迫られた美しい娘を守る蟹のお話がある。南山城の蟹満寺は、その縁起を伝えている。蟹は女性の御守りであることが窺える。春嶺がどのような関連で蟹の構図を描いたかについては、はっきりとはしない。

浮舟2023年11月25日 23:17

明治 20 年末頃 で、最初期の作品である。 土佐派の書法で描かれている。春嶺は谷口香嶠のもとで土佐派を学んだと浪華滴英は伝えているが、実際に香嶠塾での模写帖もあり、多くのことを学んだと思える。(ここで言うところの土佐派は、室町時代から続く大和絵の土佐派の流れを汲む画面を描く流派との意味であり、谷口香嶠は土佐派の描き方をマスターしていたと意味で、当然ながら美術史の土佐派ではない。ただ明治での画家の分類では土佐派という言葉が使われていたことも事実である。)この浮舟図は、源氏物語の浮舟の帖で、匂宮が浮舟の姫君を小舟に乗せて対岸の山荘に誘なう場面であり、桃山から江戸時代の土佐派の画家による作例が幾つかある。(そしてこの春嶺作の浮舟図は殆ど土佐派の画家の模写に近い)。浮舟の帖の本文では、かなりの雪が積もった冬で、有明の月が掛かっている事になっていて、橘の小嶋の和歌が詠み交わされることになっている。多くの絵巻もそれらの寂しく不安な情景を踏まえたものである。春嶺のこの作例では、満月であり雪もなく、広い空間構成で、おおらかな印象になっている。最初期の作品であるが、背景の構成は春嶺の好みに合わせて描かれている。

仲麿詠月図2023年11月10日 15:48

明治30年代の作と推定され、優美な人物描写の代表作のひとつである。明治 37 年の美術画報に掲載された「大伴古麿語国威」の遣唐使での人物描写と共通しており、同じ時期での制作と推測できる。
 阿倍仲麻呂が念願の帰国にあたり友人たちによる餞別の宴の場面であり、青い唐服の阿倍仲麻呂に赤い唐服の王維が餞別の漢詩を贈り、阿倍仲麻呂が返礼の漢詩を書きつけようとしているところかもしれない。友人たちの暖かい眼差し、あるいはお団子を運んでくる男の子の嬉しげな様子にゆったりとしたひと時を感じ取ることができる。付立てでの衣や冠の濃淡は、四条派の手法の会得とその展開を見て取ることができるだろう。あるいは背後の大河に上る月に掛かる動きのある雲と水面に落ちる月影、伸びやかな風景のなかでの仲麻呂とその友人たちの表情は、餞別の宴を親密で優美なものにしている。この作品に見られるように大塚春嶺は、歴史画を自分のものにしていく。
 なお阿倍仲麻呂は、百人一首の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」で知られている。

足柄山秘曲伝授2023年11月08日 17:07

落款からは春嶺 30 歳後半、明治 30 年代に描かれたと推測できる。足柄山秘曲伝授は大和絵での代表的な画題となる。古今著聞集の説話である源義光による秘曲伝授の様子を描いたものである。源義光は平安時代後期の武将であり、音律を好み、笙の名人である豊原時元から秘曲を学んでいた。後三年の役で、兄である陸奥守義家の苦戦を援護するために、義光は奥州に向かうことにした。その 途上で名人豊原時元の子である豊原時秋がお伴したいと追いかけて来てきた。時秋は幼い時に父時元を失っていた。そのような事情もあり、二人は箱根近くの足柄山まで来てしまった。そこでようやく義光は、時秋の思いを悟って、秘曲を伝授する。 本作品の右手鎧姿の武士が源義光、左手狩衣姿で笙を吹くのが豊原時秋である。江戸、明治でよく知られた構図は、鎧姿の義光が笙を吹いて時秋に聞かせるという場面である。本作品は、逆になっていることが特徴であり、いわば師である義光に伝授された秘曲を確認のために聞いてもらっている場面とも解釈できる。 また通常は月と焚き火があるばかりの山深い峠が背景となるが、本作品は桜を配して華やかさとしっとりとした雰囲気を与えている。桜の淡いピンクから鎧の下の白小袖、譜面が書かれた料紙、そして時秋の白い帯と下がっていく白の流れは情感を高めるものとなっている。 細部となるが、義光の腕と膝、時秋の腰の部分に降ってきた白い玉(花弁の塊)が4か所描かれて、美しいアクセントになっている。