三幅対(明石)2023年11月01日 18:15

三幅対になって、中央が「明石」の帖で光源氏を囲んで明石入道が饗応する管弦の集いとなる。左右は留守絵となっており、御車が二台重なるように留まり、躓きとなる「葵」の帖となり、もう一方が、童女たちの雪まろげの場面であり、都に帰還後の「朝顔」となる、子供たちの履き物が脱ぎ捨てられ、許された可愛い一幅となっている。源氏物語「明石」での弦楽の集いは、土佐光吉がよく知られていいて、室内での光源氏の琴と明石の入道の琵琶であり、無聊を慰めるという源氏物語の記述に沿ったものである。一方本作は海辺での明石の君と尼君をも交えた華やかな印象を与える、歓待の場という独自色が強い構図となっている。光源氏は、雅楽での笙を持ち晴れやかな表情で野趣の宴に興じている様子に描かれている。須磨に謫居となっていた光源氏が、ようやく都に帰れる悦びを現している。 「葵」「朝顔」は有名な場面を切り取ったものとなっている。この三幅対は、物語の内容としてもバランスが取れて、ある種の懐かしさを感じさせるものになっている。

下記が真ん中明石の拡大部分です。

春秋遊楽図屏風2023年11月03日 22:25

二曲一双の屏風絵です。高さ170cm横幅180cm立派な屏風絵です。写真は端が切れています。屏風絵なので箱とかがなく、原題は不明ですが、後で解説しますが、まさに春秋遊楽図屏風に相応しい日本画です。 春は、花下遊楽、秋は住吉詣を画題としている。左隻春の図では狩野長信「花下遊楽図屏風」(国立東京博物館所蔵)で描かれた風流踊りを取り入れて、素晴らしい桜の下での遊楽が描かれる。中央で輪になって踊っている五人の若い女のうち、白い頭巾を棚引かせている美しい女の姿は、長信が描いたものを写していて、その他の女たちには動作を振り付けている。流れるような見事な踊りとなっている。長信の屏風の解説では、若衆で流行していた歌舞伎踊りが風流踊りと共に描かれたとあり、春嶺の屏風での、長い刀の若衆の由来である。流行して、踊りの輪を囲むようにいる侍女を連れた着飾った娘は、「嬥歌(かがい)」を踏まえたものにも考えられる。嬥歌会とは、万葉の時代、春と秋に若い男女が集まり歌垣を作って踊ったというものである。春嶺の別の作品で、嬥歌を描いたものがあり、その桃山版と想定出来ます。

春の図(花下遊楽図)


秋の図(澪標図)


見立てられた光源氏で、畳紙に書いた手紙を持つ(秋の図部分拡大)
娘が持っている枝がお祓いの木綿、括り付けられる返事はまだない(秋の図部分拡大)
もう一方の秋の図は、住吉詣を描いている。紅葉鮮やかな参道は海に面しており、舟での参拝客も乗り付けようとしている。人々の姿からは桃山から寛永というところだろうか。参道には子供を肩車する若旦那を中心に2、3組の若い女たちが思わせぶりなポーズを取っている。木陰に姿を隠すような旅傘の女とそのお付きの組と若旦那の一団が対となっている。源氏物語の「澪標」の帖の見立てになっている。「澪標」の帖は、光源氏が無事に都に帰れる事が出来、住吉大社への光源氏の御願果たしの参詣が華やか行われた。偶々行き当たった住吉詣の明石の君が、あまりの華やかさに光源氏の一行の前に姿を見せる事が出来なかったとの場面の見立てになっているとも読める。そして明石の君はやむなく船で浪速の方に向かい、お祓いをしてもらう。その事にようやく気づいた光源氏は畳紙に手紙を書く、明石の君のその返礼は、祓いの木綿(ゆう)に付けて送り届けられる。若旦那の持つ手紙、若い娘の手には木綿(ゆう)である枝があったりするのである。とすると若旦那の肩に乗る小さい童女は、明石の君との間に出来たばかりの女子(明石の宮)であるようにも見える。
もう一つの見立ては、若旦那は、光源氏のモデルでもある在原行平を想定したものというものである。よく知られているように平安時代の初期の在原行平(業平の兄)は、須磨に蟄居を余儀なくされて、源氏物語も須磨の帖は、それに取材したものとの説もある。さらにお能「松風村雨」が作られている(現在の須磨区にも行平町との地名が残っている。また松風村雨堂がある)。それはそれとして、若旦那が童女を肩車としている理由が分からなかったのですが、行平は子弟の学問所である奨学院を創設したことが知られており、行平像は童女を高く抱えた姿で表されることがあるようです。それらを踏まえて、若旦那の姿があり、行平であり、光源氏でありという二重の見立てになっている。(さらに補足すると、桃山時代の若旦那が童女を高く抱きかかえている春嶺の下絵が見つかっている)。さらに左手の扇を翳す聡明そうな若衆は、見立てられた紫の上かもしれないと想像も出来る。単にいろんな人物が描かれているというだけでなく、奥深い見立て、わかる人には分かるという仕掛けがいくつかあったりするのは興味深い。大正時代の春嶺は、最近「大阪の日本画」で話題になった船場の画家のまさに代表でもあり、パトロン周辺で「いいね👍」と評価されることが全てだった環境を彷彿させるものがある。

足柄山秘曲伝授2023年11月08日 17:07

落款からは春嶺 30 歳後半、明治 30 年代に描かれたと推測できる。足柄山秘曲伝授は大和絵での代表的な画題となる。古今著聞集の説話である源義光による秘曲伝授の様子を描いたものである。源義光は平安時代後期の武将であり、音律を好み、笙の名人である豊原時元から秘曲を学んでいた。後三年の役で、兄である陸奥守義家の苦戦を援護するために、義光は奥州に向かうことにした。その 途上で名人豊原時元の子である豊原時秋がお伴したいと追いかけて来てきた。時秋は幼い時に父時元を失っていた。そのような事情もあり、二人は箱根近くの足柄山まで来てしまった。そこでようやく義光は、時秋の思いを悟って、秘曲を伝授する。 本作品の右手鎧姿の武士が源義光、左手狩衣姿で笙を吹くのが豊原時秋である。江戸、明治でよく知られた構図は、鎧姿の義光が笙を吹いて時秋に聞かせるという場面である。本作品は、逆になっていることが特徴であり、いわば師である義光に伝授された秘曲を確認のために聞いてもらっている場面とも解釈できる。 また通常は月と焚き火があるばかりの山深い峠が背景となるが、本作品は桜を配して華やかさとしっとりとした雰囲気を与えている。桜の淡いピンクから鎧の下の白小袖、譜面が書かれた料紙、そして時秋の白い帯と下がっていく白の流れは情感を高めるものとなっている。 細部となるが、義光の腕と膝、時秋の腰の部分に降ってきた白い玉(花弁の塊)が4か所描かれて、美しいアクセントになっている。

仲麿詠月図2023年11月10日 15:48

明治30年代の作と推定され、優美な人物描写の代表作のひとつである。明治 37 年の美術画報に掲載された「大伴古麿語国威」の遣唐使での人物描写と共通しており、同じ時期での制作と推測できる。
 阿倍仲麻呂が念願の帰国にあたり友人たちによる餞別の宴の場面であり、青い唐服の阿倍仲麻呂に赤い唐服の王維が餞別の漢詩を贈り、阿倍仲麻呂が返礼の漢詩を書きつけようとしているところかもしれない。友人たちの暖かい眼差し、あるいはお団子を運んでくる男の子の嬉しげな様子にゆったりとしたひと時を感じ取ることができる。付立てでの衣や冠の濃淡は、四条派の手法の会得とその展開を見て取ることができるだろう。あるいは背後の大河に上る月に掛かる動きのある雲と水面に落ちる月影、伸びやかな風景のなかでの仲麻呂とその友人たちの表情は、餞別の宴を親密で優美なものにしている。この作品に見られるように大塚春嶺は、歴史画を自分のものにしていく。
 なお阿倍仲麻呂は、百人一首の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」で知られている。

岩礁鷹図2023年11月13日 13:03

明治 25 年頃 で、春嶺初期の作品となる。 四条派の付立ての技法で勢いある岩礁と繊細な筆使いでの白鷲の対比が印象的な作品である。春嶺の四条派の伝統的な花鳥画は、本画では岩礁鷹図と孔雀図、二つが知られているだけである。四条派の描き方を深田(直城)塾で学んでおり、いくつかの模写と写生が残されている。それらのなかで、森川曽文の江ノ島富士図を模写したものがあった。岩礁鷹図の岩の表現は、その模写に近似していることが確認できる。なお森川曽文は深田直城の師であり、花鳥風月画だけでなく、風俗画から美人画も残されている。